いつもありがとうございます。
ツイてる抗加齢(アンチエイジング)実践家てるです。
毎日毎日、多くのステキなことがあり、感謝しています。
◆震災関連
自衛隊 「感謝してもしきれない」
買い物で復興後押し アンテナショップに行列
自治体連携、広がる支援 関西は広域で、地震・原発経験生かし
米仏独や豪州、原発で対日協力拡大 災害ロボやLNG
ガンバローニッポン!!歴史に学ぶ国難からの新生
日本は大丈夫だと思う理由
瓦礫の下から慟哭 生き抜く力を信じよう
度肝を抜いた米軍の支援 日本政府の不作為を問う
非常事態に「増税」の愚
「造血幹細胞採取は不要」と原子力安全委 作業員の命より政治的配慮か
民主党がお揃いの防災服新調 党内から「パフォーマンスしている場合か」の声
「民主と分からぬように」 支援参加議員に党要請
◆原発・電力関連
福島第1原発事故への政府の対応は、厳しく評価されている
福島第1原発で東電社員2人の死亡を確認
自衛隊の皆さんのことを安全保障のノンフィクション作家
桜林美佐さんがJBPressに寄稿されております。
本当に頭が下がるすばらしい活動をされていて感激しています。
自衛隊を違憲とか暴力装置と切り捨てた反日無能政権は防衛予算も
下げまくっていますが、特に中国の軍事脅威は日々高まっており、
日本も防衛政策の大幅見直しが急務です。
私のライフワーク:質の高い健康とより幸福・豊かな人生を実現するお手伝い。
私が発明しているのは、「人類を救う宇宙人」であるという可能性です。
****************************【以下転載】****************************
桜林美佐氏
「自分が行きます!」
全ての隊員が口を揃えた。福島第一原発に放水をするため、陸上自衛隊のへリコプター「CH-47」が出動することになった時のことだ。
「任せろ、これくらい大したことはないさ」「今、無理しなくてどうする」
被曝覚悟の作戦にもかかわらず、そんな声があちこちから聞こえてくる。
同原発では、3月14日に3号機で放水作業中に水素爆発が起き、4名のけが人も出た。その中には、中央特殊武器防護隊長もいた。事故に遭った隊員は後送されるのが通常だが、隊長は下がることを強く拒んだという。
「あの、温和なアイツがそんなことを… 」
同期の幹部自衛官が絶句した。とても、そんな無理をするタイプに見えなかったが、何が彼にそう言わせたのだろうか。
車座になって涙を流す隊員たち
原発への放水作業だけではない、被災現場での救援でも厳しい状況は同様だ。氷点下の気温の中で作業を続けるが、燃料を使うわけにはいかないと、暖をとることもない。持っていた隊員用の携帯糧食を、迷うことなく被災者に渡す隊員ばかりだという。
空腹の中で作業を終え、ド口ド口になった戦闘服を脱ぎ、翌日、またその同じ服を着て出ていく。それは「昨日の記憶を背負いながら行く」ことでもある。
目を瞑ると、目の当たりにした遺体の残像が浮かんでくる。それは阪神・淡路大震災の時も同じだった。
当時、若かった隊員が、現在は曹長などリーダーになっており、その経験からか、誰が命令したわけでもなく、夜は5~6人の作業部隊が車座になるのだという。
つらかった光景、ひどく悲しかったことなど、黙々 と作業をし続けたその日の全てのことを出して吐き出し、そして泣く。やがて、明日も任務を精一杯やろうと誓い合って、一日を終えである。
東北の隊員は、全国から派遣されている部隊を気遣い、申し訳ないという気持ちと、自分は、一層頑張らねばならないという思いがある。しかし、彼らは被災者でもある。家族や肉親を失っていたり、今なお、愛する人が行方不明となっている隊員も多い。
遺体を発見した時に「自分の家族では」という思いが頭をよぎっても、任務に私情は挟めない
「今、行かなければ一生、後悔する。」
救援活動の中心となる隊員は、19歳から25歳くらいの若者ばかりである。中には地元で知られる「ワル」だったり、不良グループのリーダーをしていたような隊員もいる。それを40~50代の、いわば「オヤジ」たちベテランが支えている。
「人生経験も未熟で感受性豊かな世代が、人の生き死にを目の前にして、まして肉親の所在も分からないままなのに、感情を抑え続けて、心が折れないはずがありません。彼らは制服を脱げば普通の若者です。気持ちを打ち明ける時間をつくることは、大事なんです」
収容した全ての遺体に手を合わせ、遺体安置所まで運ぶことが自衛隊の任務だ。彼らは安置所に入り、自分の家族を探すことはできない。入口で、運び込んだ遺体の冥福を祈り、また現場に戻っていく。
また、多くの隊員が妻や子を残して出動している。残された家族はさぞかいし心細いだろうが、「この国難に弱音は吐けない」と、気丈に家を守っている。
自衛官の死亡・行方不明者は計3名。空自・松島基地の隊員1名が死亡し、陸自・多賀城駐屯地(第22普通科連隊)所属の陸曹の死亡が確認された。
行方不明の隊員もいる。最後まで避難誘導し、津波に飲み込まれるのを住民が見ている
仲間や家族の死に直面しても、今日も活動は続いている。すでに生存可能な時期を過ぎ遺体を安置所に運ぶことが続くが、担架なども不足しているため、おぶって運んでいるという。
予備自衛官も投入されることになった。「今、行かなければ一生、後悔する」と言う息子に親は「家のことは私たちがなんとかするから」と言って送り出したという話も聞いた。
阪神・淡路大震災を経験した自衛官は言う。「日頃、いろいろと問題を起こすヤツもいますが、国難にあたってはすさまじい使命感でやっています。かつて、この国を守るために特攻隊で散華したのも若者たちでしたが、今、被災地で活動している彼らに重なります。彼らと同じ制服を着ていることを誇りに思います」
初めて敬語でメールを送ってきた娘
地震発生以来、東京・市ケ谷の防衛省では、陸海空の自衛官が戦闘服姿になり、臨戦態それぞれの任務に当たっている。多くが一度も帰宅していない。
労をねぎらうと「現場はもっと大変ですから」と言い、すぐにでも現場に行き、共に活動したいと口を揃える。
19階建ての庁舎では、節電のために皆さんが階段を上り下りする姿が目立つ。慌しくすれ違った叩き上げのべテラン自衛官が、ふと立ち止まり、振り返って言った。
「そういえば、娘から初めて敬語でメールが来ましたよ」とちょっと恥ずかしそうに言った。
その内容は、「日本に生まれ、自衛官の娘に生まれて良かったです。お父さんを誇りに思す」とのことであった。
「明日から、現場に行ってきますよ」。そう言って、すぐに階段を駆け上がっていった。
復興に向けて、自衛隊の戦いはまだまだ続く。
(出典:JBPress)
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