いつもありがとうございます。
ツイてる抗加齢(アンチエイジング)実践家てるです。
毎日毎日、多くのステキなことがあり、感謝しています。
ヤッターーー!!!
なでしこ 世界一!!!
おめでとう。おめでとう。おめでとう。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
◆震災関連
菅直人首相の「押込」しかない
前復興相は中国共産党みたい
◆原発・放射能関連
原子力委の設置、裏に偽装報告 55年 初の海外調査団
◆海外の情報や動き
大韓機利用「自粛」 領空侵犯に当然の措置
忘れまい報道の原点
今年で100歳の日野原先生はお元気ですね。
70年の医師の経験・実績は読み応えがあります。
私は日野原先生の講演は二度お聞きしましたが、
いずれも時間通りピッタリとまとめられたすばらしい内容でした。
> 30歳の時の腹囲と体重を維持することが大切
私は筋肉を増やしたので腹囲は減り、体重は若干増加しています。
> 今は、エスカレーターを駆け上り、若い人を追い越すことが生きがい
すばらしいですね。
私は階段を使ってエスカレーターを歩く人の速さを抜くようにしています。
私のライフワーク:質の高い健康とより幸福・豊かな人生を実現するお手伝い。
私が発明しているのは、「人類を救う宇宙人」であるという可能性です。
****************************【以下転載】****************************
第61回日本病院学会、「70年の医師の経験」を踏まえ、記念講演
「大学病院では臨床研修はできない。私の医師としての基礎は看護師が教えてくれた。この二つをぜひ言ってほしいと依頼された」
7月14日に開催された、財団法人聖路加国際病院理事長の日野原重明氏による、第61回日本病院学会の記念講演は、座長を務めた済生会福岡総合病院病院長の岡留健一郎氏のこんなユニークな演者紹介からスタート。テーマは、「病院医療の未来―70年の医師の経験から」。自らの研修医時代から始まり、聖路加国際病院の将来の取り組みに至るまで、話は多岐にわたった。
研修医、また若手医師時代のエピソードを通じて強調したのが、自らの感性を研ぎ澄まし、日常診療から疑問を見いだし、それを解決していく姿勢の重要性。「腸チフスで高熱の患者に種痘を接種しても、免疫が付かなかった。高熱になると免疫反応が落ちるのかと。(それを上司に)言ったら、『面白いから、それをリサーチしなさい』と指導され、臨床の傍ら、ウサギで動物実験に取り組み、発熱状態では免疫力が落ちることを立証して、論文を書いた。リサーチは、臨床の中から生まれる」(日野原氏)。
さらに、「医療は医師中心ではない」と指摘する日野原氏は、早くからコメディカル養成、チーム医療の実践に取り組んできた。1951年から52年にかけて米国留学した日野原氏は、帰国後すぐに臨床検査技師の養成を開始。「聖路加では、麻酔看護師(Nurse anesthetists)になれるようなコース(聖路加看護大学院修士課程)をこの4月から始めている。2年後に麻酔看護師の資質を持つ人が出る」(日野原氏)。麻酔看護師は米国では資格化されているが、日本では、特定看護師(仮称)の議論すら、着地点は見えず、麻酔看護師が誕生してもその位置付けは曖昧だ。そんな状況を踏まえ、「法律はあっても、やぶらないと、(医療は)よくならない」と語る日野原氏。
岡留氏によると、「成人病」から「生活習慣病」への名称変更、また臨床研修の必修化を主張し続けたのは、日野原氏だが、実現するまでには前者は約30年、後者は約20年かかったという。「いろいろなことをやるには、時間がかかる。今年10月に100歳になるが、まだまだやりたいことはたくさんある。サバイブ(Survive)しなければいけない」と日野原氏。「日野原氏は、著書に『始めることを忘れない』としているが、これを実践していれば、いつまでも若い」(岡留氏)。
記念講演は、予定の1時間を15分ほど超えたが、日野原氏は、ステージで立ち続けたまま、時に聴衆の笑いを誘いながら講演を続けた。
自ら塩化カリウム飲み、電解質について「自家実験」
日野原氏が、「大学病院では臨床研修はできない」とするのは、自らの体験から。1937年に京都帝国大学(現:京都大学)を卒業。大学附属病院で研修したが、教授回診では、若手医師は最後尾。「教授回診は3時間近くかかることもあった。しかし、教授が何をやっているのか、10mくらい後にいる私には全く分からず、時間のムダだった。回診が終わると、教授におしぼりを渡し、団扇で扇ぐ。それが婦長の役割だった。3つの内科系講座が協力し合うのではなく、それぞれ独立してやっていた。能力がないことを知られるのを嫌がり、病気が分からないと、他の病院に送っていた。大学病院で学ぶことはなかった」(日野原氏)。
その後、京都病院(現:国立病院機構京都医療センター)で勤務した際に、看護師長や主任から、気管切開をはじめ、様々な救急の処置などを学んだという。
講演の中で、特に熱心に語ったのが、若き日々の様々な研究のエピソード。日野原氏は、心音、発熱と免疫反応の関係、リウマチ熱と妊婦の心臓病の関係、さらに1951年から1952年の米国エモリー大学留学時代は、水と電解質の関係など、臨床と並行して様々な研究に取り組んだ。
例えば、1939年から1941年の大学院時代、心音の研究に従事。「食道からマイクロフォンを飲み込み、食道の内壁から心音を聞けばいい、と考えた。それを同僚に言ったら、『マイクを飲むなんて、バカなこと』と言われた」(日野原氏)。それで理学部に行き、マイクロフォンを開発、まず自分で飲んで試してみたという。
その後、電解質に興味を持った日野原氏は、自ら塩化カリウムを飲み、「自家実験」した。「塩化カリウムを3g飲むと、血清電解質が4.5から5.5(mEq/L)くらいになる。5.5(mEq/L)以上になると危ないということで、3gにした。すると顔に、糊が張ったような感じになった」と日野原氏。その経験を基に、ある患者に、「顔に糊が張ったような感じになったら、看護師さんに言って塩化カリウムを測定してもらいなさい」と言ったところ、2日前には正常値だったが、「糊が張った」状態になったため、患者は看護師を呼んだという。しかし、なかなか看護師が対応せず、その1時間後に心停止を来した。「医療従事者だけなく、患者に情報を提供する、ナレッジを与えることが必要。それを実践するためには、自分で実験をしなければいけないことを学んだ」と語る日野原氏。なお、日野原氏が、研究成果をまとめ1963年に上梓した、『水と電解質の臨床』は、幅広い医師に読まれたという。
健康の秘訣、週2回100-120gのステーキも
日野原氏は、医療提供体制の面でも様々な改革に取り組んでいる。1952年の留学から帰国後は、聖路加国際病院で米国式の卒後教育を実践、1961年には米国式内科専門医制度の準備をはじめ、日本内科学会に提言している。1954年には人間ドック、1974年には(財)ライフ・プランニング・センターを発足させ、市民のための健康教育などにも力を入れ始めた。
講演の最後に説明したのが、23項目から成る、聖路加の「現行の行動達成目標」。診療体制については、プライマリケアから救命救急センターまで総合的に対応する体制を目指すほか、最先端部門では、ロボット手術の研究センターを備えた心血管センター、外来化学療法センターの充実などを挙げている。医師の前期・後期研修の充実を図り、麻酔看護師をはじめ、専門性の高いコメディカルの養成にも力を入れるほか、「米国式メディカル・スクールの設置の計画」も掲げている。前鳩山政権時代は、「特区」を作り、メディカル・スクールを実現する話もあったという。国際性の観点からは、2012年10月に、外国人専用の予防医療部門を東京・丸の内に開設する予定もあると紹介した。
日野原氏が、講演の締めくくりとして紹介したのが、自らの健康の秘訣。食事と普段の活動が重要であり、朝は15gのオリーブオイルを摂取するという。「地中海沿岸の地域では、心筋梗塞が少ない。蛋白質は、歳を取っても、必要。100-120gのステーキを週2回食べている。いい油のドレッシングでサラダも山盛り食べる。30歳の時の腹囲と体重を維持することが大切。今は、エスカレーターを駆け上り、若い人を追い越すことが生きがい」(日野原氏)。
(出典:m3.com)
0 件のコメント:
コメントを投稿